「◯◯さんって普通じゃないですよね」
「◯◯くんっていい意味で変わってますよね」

みたいな、褒めてるのかそうじゃないのかよく分からない言葉を耳にする。僕自身も言われる事がある(こないだも言われた)。別に僕は言われて嫌な気分にはならない。なぜなら僕自身が、他人にはない特別な魅力を持っている人に惹かれるからに他ならない。

それに加え、何か人と違う事をしたいという漠然とした野望が小さい頃から色濃くある。だが決して志村けんが演じていた“変なおじさん”のような変態になりたい訳ではないことは先に伝えておく。そういう意味で「この人変なんですー」と言われたい訳ではない。

けど、思う。「◯◯さんって普通じゃないですよね」の、その普通ってなんだ?

先に僕的結論を述べると、同じ人間なんて一人としていないわけで。誰しも誰かにとって普通じゃない部分は必ずあると思う。しかしながら、

「普通はさ〜…」
「世間一般的にはさ〜…」
みたいな会話があるが、その普通とは一体なにを持って普通なのか。世間一般とは。

要はマジョリティ的な事なのだろうが。じゃぁラーメンとカレー、どっちが好きかアンケートを取ったとしてラーメンが過半数以上であれば「普通はラーメンでしょ」とカレー派は普通じゃないという扱いを受けてしまうのか。

まぁ、そんな屁理屈はさておき。

はじめにも言ったが結論、同じ人間なんていないわけで。誰しも誰かにとって普通じゃない部分はあると思う。なのに「普通はさ、、、」と、なぜマジョリティを求めるのだろうか。

時代は移り変わるし、流行も変わる。テクノロジーも進化する。それらに沿って我々の常識も変わるわけで。ガラケー時代にスマホが登場した時も「ボタンが無いって有り得なくね?」みたいな感じだったのを鮮明に覚えている。「やっぱ押した感が欲しいよね」みたいな話を高校の終わり頃よく話していたが、今では当たり前にボタンはない。こうやって時代はその都度変わるものだ。

世間なんてものは常に変化している。それなのに“普通”にこだわるのは不毛な気がしてならない。ちょっとくらいズレてる方が移りゆく時代を乗りこなすにはちょうどいいんじゃないか。

フォロワーやイイね、登録者数や再生回数。様々な数字が可視化され、画面越しの情報が評価されがちな時代。その数字が大ければ大きいほどある意味それが今の“普通”になるのかもしれない。それももちろん大切なことだと思うが、数字ばかりに惑わされず本質的な部分にロマンを感じることができる人間でありたい。そんな風に思う。

周りの意見や嘘か本当か分からない情報に惑わされずに、自分が好きなことや好きな人、楽しいと思うことや嬉しいと思うこと。そういった自分の中にある『本当』に正直に生きたいものだ。俄然その方が自分を好きでいられる。もしそれを、

「◯◯さんって普通じゃないですよね」
「◯◯くんって変わってますよね」

と、言われるのであれば僕は普通じゃなくていい。どうぞ変なひと扱いしてくれ。

と、まぁそんな事を考えながら今日も仕事終わりの缶ビールを片手にヘッドホンから流れる音楽にノリノリで片道徒歩15分の夜道を帰るのだが、恐らく側から見ると結構ノリノリだと思う。ミュージカル映画のワンシーンかの如く。多分普通じゃない変なひとだと思われているはず。『なんだあいつ、めっちゃノリノリやん、、、』って。

な、なんだチミはってか?
そーです。あたしが、変なひとです。

だっふんだ。